金曜日に蕾だけの一輪を生けて今日日曜日で三日目になる姫百合。

復活祭からの二か月に及ぶ復活節が完全に終わり、後は「何もない」いつもの年間主日が待降節までの五か月ほど続きます。夏至の今は降誕祭の半年前で、南半球のクリスマスはほぼほぼこんな陽気でしょうか?

 キリスト教において「いつもの」といえば主の祈り。

聖体祭儀などの礼拝式には欠かさずに唱えられるほか、個人や集会の祈りとして「まずはこれやっとけば大丈夫。」というようなキリスト教を代表する祈です。実際の位置づけとしては仏経の題目や念仏のようなものですがそれらは内容を理解しているもの或いはやがては理解できるようになるものと見做してその唱和が省略される形なので短く纏められた内容を全て唱和する主の祈りとは様式が少し違います。尤も、内容のそのまた内容である聖書の言葉の数々は深遠で難解なのでその意味では主の祈りもかなり省略されているともいえます。

主の祈

天にまします我等の父よ、

願はくは御名の尊まれむことを、

御国の来たらむことを、

御旨の天に行はるる如く地にも行はれむことを、

我等の日用の糧を今日我等に与へ給へ。

我等が人に赦す如く我等の罪を赦し給へ。

我等を試みに引き給はざれ。

我等を悪より救ひ給へ。

カトリック教会の日本語訳式文

現在の日本のカトリック教会においてはこの式文とは少し違う現代語訳が標準として用いられていますが私は現代語版は認めません。この古語版が標準として用いられていたのは平成初期までです。現代語版は何やら内容も違うかのような感じがします。

 現代語版の引用は省略しますが、大づかみにいうと、古語版は「これが私(達)の切なる願いです。神様は如何でしょうか?」という感じですが、現代語版は「神様宜しければこうして下さい。してくれますよね?」という感じがします。

ギリシア正教会系のハリストス正教会や日本キリスト教団などの新教の多くの教会は今もそれぞれ古語の訳文を標準として用いています。

カトリック教会は前世紀までは歴史的に旧態依然だと散々いわれ続けていたので現代化への願望、今風になりたいという願望が神への願いよりも強いようです。

かように現代語版の主の祈りや天使祝詞(聖マリアへの祈)は恫喝調または強迫調の言葉遣いですが聖書に記される聖なる人物にも神を恫喝または強迫していた人がいます。それはヨブ記の主人公ヨブです。或いは神を呪うともいえるかもしれません。

ヨブ記はその身の不幸を嘆き神にその念を訴えますが神についてよく知り信仰が深いと見られる何人かの人達にそれを批判される話です。そして彼等は互いにいわば神学論争をしますが、それはヨブとそれを批判する人達のどちらが正しいか或いは勝ちかというような事柄ではなく、皆が神についての考えを深める機会があったということを伝えるものです。そのような議論のあり方をbrainstormingといい、結論を導こうとするdiscussionとも勝敗をつけようとするdisputeとも異なります。現代においてはもっと楽しい議論をbrainstormingという場合が多いですが彼等のような深刻なbrainstormingもあります。彼等がその末に得たいものはより深い神の恵でしょう。

ヨブは自らの不幸を神による試み、いわゆる試練だろうと考えていました。しかし主の祈りを見ると、神は人を試さない、試練を与えるものではないという真実が窺われます。本当はそうではないのにヨブはそう思っていた。

聖書を生み出したイスラエル人さえそのように神についての理解を誤るので、その他の人々は尚更です。天地創造の初めから今も神とは何かが誤解され続けています。

その最たる例はイスラエルの父祖アブラハムが子のイサクを屠り献げたことについて。

アブラハムは神がそのように命じたのでそれに忠実にイサクを屠る(殺す)用意をしましたがその刃を立てたその時に、神はそうしなくてもよいと前言を翻して事なきを得ました。

それを神がアブラハムの神自身への忠実さ、神に全てを従うかどうかを試したと解する例が跡を絶ちませんがそうではありません。恐らくヨブもそう解していたかもしれません。

朝令暮改という諺がありますが、神はアブラハムへの命令、考えを変えたに過ぎず、そこには何の他意も含みもありません。イサクを屠れと本気で命じ、そしてイサクを屠ることをやめろと本気で命じた。

その理由までは聖書には言及がありませんが、行間を読む限りでは笑、神がイスラエルの民の父祖たる指導者は子を持つべきではないという案を示したと考えられます。そしてそれを変更し、子を持たずに民を指導する役目はアブラハムではなく後の世のイエスに譲られた。イエスが子を持たなかった(仮に子ができても育てなかった。)ことはキリスト教会の指導者としてイエスに倣うべきカトリック教会の司祭や修道者の独身制の理由とされます。

神は試練を与えない。

強いて試練というならば、原罪を負う全ての人にとりその生涯の全てが試練ですし、いつどこにどんな試練があるというようなことはない。そういうものは人が何らかの浅知恵を以て与えるものか与えられてはいなくても与えられたという思い込みに過ぎません。「我等を試みに引き給はざれ。」とはそのような浅知恵や思い込みに惑わされないようになりたいという願いなのです。

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