川崎市麻生区の早野聖地公園。

まず批判から始めますと、どうも日本人は天国や地獄というものを軽々しくいうようです。

 キリスト教には天国、煉獄と地獄というものがあります。それぞれ教理により厳格に定義されており、キリスト教の信者やキリスト教圏の人々はそれらを軽々しくいうことはありません。

 日本の仏教やその遠い発祥のインドの仏教には天国や煉獄に相当するものはないそうですが地獄に相当するものはあり、人間が死後に裁かれて地獄に入る者とそうではない者が選別されるということはキリスト教だけにあるものではないそれなりに普遍的信仰なようです。

 因みに極楽浄土とは天国のように死後に入る所ではなく地上に生きながらにして実現するべき境地というものなので天国とは異なります。しかしキリスト教も死後そして世の終わりに実現する天国という境地を地上に生きながらにしてその一部をでも実現することが神の国といわれ、死後と生前は一連のつながているものだとの認識は相通じます。

 人の生涯や世の成り行きに関わる重要な事柄である天国や地獄というものを或る一時の体験や境遇を喩えるものとして「天国のようだ。」とか「そんなことでは地獄だ。」とかいうのはあまりにも人や世を馬鹿にしています。日本人も伝統的に閻魔大王による裁きと地獄の業火を恐れる心があるので、日本人的ともいえないことです。

 日本人が何でそういう風になっているかについては主に保守主義の方々のよく説明するように、日本は西洋に発祥した世俗主義や合理主義を御当地にもないほどに大袈裟に発展させて自らの思想としているため聖なるものを軽々しく扱うことによりあらゆる物事を無用に相対化するようになった。

大袈裟とか軽々しくとかいうと自分はそうではないか少しそうだがセーフだと思うかもしれませんが、人が亡くなった時に「天国に行った。」というのもその一つです。そこはキリスト教にも「帰天」という業界用語があるので誤解を招きかねないものですが(「召天」という用語もあり、それが誤解を招きにくいでしょう。)、キリスト教の信仰に拠ると、全ての人は天国には世の終わりまで入ることができない、それまでは煉獄に入り生前の罪の償いをし続ける、それを拒むと地獄に入るとされます。なので亡くなったら程なく天国に入るということはあり得ませんし、仏教や神道にはそもそも天国という信仰はありません。仏教や神道はあくまでも「地獄ではない」境地に至るといいます。天国と地獄は対概念ではない(それぞれ全く固有のもの。)ので地獄ではないものは天国だとはいえないわけです。

キリスト教における世の終わりとは神の定める世の初めと終わりに即してあるもので、神の意思が完成する時ということなので、例えば地球環境の破壊や核戦争などにより世界が終わってしまうことではありません。そのような世界の終わりもあり得なくはありませんが世の終わりとはそのようなものではないのです。どんなに地球がきれいで争いも飢えもなくても神が決めれば世の終わりになることはあり得ます。

どうやら世は存続し続けるようだという見通しに立ってみると、どうしても世の終わりというものはメタ存在としてしか捉えられません。それはどう逆立ちをしてみてもそれが全く神の意思によることである以上はどんなものかは具体的には全く知り得ません。

 天国に入るとはそのように神の意思が完成した境地に生きるということです。

 但し世の終わりは或る時に突然に起こるものではなく、既にその一部が始まっているともされます。なので亡くなった人が天国に爪先を突込む程のことなら今直ぐにもあるかもしれませんがそれだけでは天国に入ったとはいえません。

福音書にはイエスによる天の国についての説教が幾つもあります。しばしばその「天の国」は天国のことではないという向きがありますがそれらは完全一致ではないにせよ多くの部分が重なり合うものです。なので「天の国」と書いてあるのを「天国」と読み替えても何の問題もないでしょう。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中