45歳8か月にして初めて自前の送り火を焚きました。

京都五山送り火は例のあれで中止かと思っていましたがほぼ無観客での開催になるそうです。

私が五山送り火をLIVEで見たのは18歳の時に西院聖ミカエルカトリック教会の屋上ででした。それ一度きりで、これから生きている内に見れる機会はあるかどうか分かりません。

五山送り火は京都市街の東北西の三方を囲む山形(やまなり)の東から大文字・妙法・船形・左大文字・鳥居形の燈火が献げられるもの。

火はゾロアスター教を起源とする密教には不可欠の道具とされ、大文字の灯される比叡山が天台宗の延暦寺の膝下であることからしても盆の送り火は密教の色濃く反映される祭りといえます。

キリスト教もまた特にその首位を名乗るローマカトリック教会は火を復活と聖霊の象徴として蝋燭の燈を多用します。カトリック以外もそこそこ蝋燭などの火を用いますがやはりゾロアスター教や密教などの異教の匂いをなるべく避けるようにしてかカトリックのほどには多用されません。

カトリックには十一月の始めの頃に死者の日という祭日があり、これは十月の末にあるハローウィンが起源とされ、異教の匂いがしようと死者を思うことは大切だという信仰なのでしょう。

ここ川崎市の某所の我が家も東南西の三方を山に囲まれて東の高野山とも呼ばれる真言宗星宿山王禅寺や麻生不動尊などの密教の寺があり、年越には除夜の鐘が力強く響き渡る小さな京都のような土地です。京都とは北と南が逆ですがここで自前の送り火を焚いています。

方位が逆といえば、五山送り火も御所を南に向かって見る京都の左右とは逆に羅城門を北に向かって見るいわば京都以外にも普通の左右です。

送り火の行われる8月16日の盆の千秋楽の前日8月15日は日本においては第二次世界大戦及び大東亜戦争の終戦記念日ですがカトリック教会においては聖母の被昇天の祝日です。

連合国が日本に降伏を求める日としてこの日が偶然に重なったのか意図して選ばれたのかは分かりませんが、聖マリアが後の世のアシジの聖フランチェスコが平和のための祈りに語る「我をして御身の平和の道具とならしめよ。」ということを最も忠実に生きて実践したことを思うと、終戦が本当の意味の平和といえるかどうかはさておき、平和という命題には似つかわしいものといえるかと思います。しかし、12月8日の無原罪の聖母の祝日が太平洋戦争の開戦記念日と重なることからしても、日本の戦争が聖マリアの祝日に意図的に合わせて敵の手の内に乗せられていたのではないかという気がします。

戦争が終わることは単に戦争が終わることに過ぎず、それそのものが平和をもたらす訳ではありません。平和とは一人ひとりが心を尽くして平和のために生き続けることによってしかもたらされないものです。

聖母の被昇天を理解するためにはまず無原罪の聖母を理解しないとなりません。しかし難しいことにそれらは二つの事柄が一つの因果律により連動するようなものではなく、それぞれに特有の意味のあるものです。なので無原罪と被昇天は一見は矛盾するかのように見えます。

聖マリアが無原罪であることはその母聖アンナの胎に宿った時に決定したとされますが、そこでそのように決定するためには聖アンナがその子聖マリアを無原罪の者として産むという意思がないと成り立ちません。なので、それが決定したのは聖マリアが聖アンナの胎に宿った時ですがそのための用意は聖マリアが宿る前から成り立っているのです。そこには神の一方的恩寵ではなく人の自由意志が存分に働いています。

無原罪とは人類史上に聖マリアにのみ与えられた恵で神そのものであるイエスにさえ与えられなかったものですが、無原罪ということを何か人として他とは異なる性質や特徴というように捉えてはなりません。聖マリアを含む全ての人は同じ人間性の自然を与えられて生まれます。

無原罪とは人としての性質や特徴ではなく、神がその御業を行うために聖マリアに与え、そして与え続けた特別の使命とそのための恵のことです。そのためには聖マリアの自由意志による応答と承諾が必要でした。

その無原罪の恵は聖マリアには常に完全に与えられましたが無現在ではない他の全ての人はもし望むなら、聖マリアに与えらえたのと同じ無原罪の恵の一部を受けることができます。それがほんのごく一部かかなり豊富にかは分かりません。

そのための条件とはまさにですね、平和の道具として自分を献げて生きることです。神の国を取り戻す。

突然に安倍語を遣ってすみません。

しかし「逆に」、被昇天は聖マリアの自由意志によってではなく神の一方的恩寵によりなされたとされます。

もし天国に入ることが自由意志によってではなく神の一方的恵によるならば、人は天国に入りたくなくても入れるということになります。

実際に天国は悲しみや苦しみがなくなる所ではなく、天国に入ってもなお悲しみや苦しみはなくなることがありません。それらを神と共に身に受け続けるのが天国なので、天国なんて行きたくもないわと思ったりもします。

聖マリアもそのように思ったことがあるかもしれませんし(知らんけど、)、どんなに望みを失ってもなお、神は恵を一方的に与えてくれます。その恵みに少しでも応えるなら、地獄の業火ならぬ「天国の業火」も涼しいのです。

平和のためにはそういう血を流さないとならないのです。政治的意味はありません。

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