横浜市青葉区柿の木台に創業した鶏だしらーめんの店 小さな野はらの木の下で。
横浜市青葉区柿の木台に創業したパン屋 SUMOMO BAKERY。

先週から2021年の待降節に入り、今日は待降節第二主日です。

 待降節とはキリスト教の第二の大きな祝祭日である降誕祭(Christmas; Noël; Natale)を迎える四十日の旬間です。

 毎年何度も言っているように、降誕祭の起源は西ローマの冬至祭です。キリスト教の祖ナザレのイエスの誕生日は特定されてはいないのでキリスト教は彼の誕生を祝う日をその冬至祭の日を横取りしてキリスト教の色を着けました。故に本来はイエスの誕生を祝うことはキリスト教にとり年中無休だともいえます。

キリスト教がその冬至祭の節に降誕祭を祝うことも一つの風物詩を兼ねての位置づけですし、キリスト者以外の人々が冬至、即ち一年の最も日の短い、闇の内に光を憶え或いは見出す日を祭の日とすることは大いに良いことです。キリスト教徒ではない日本人がクリスマスを祝うとは意味が分からないという人が未だに絶えませんが私にはそれが逆に分からないです。どうぞ、常日頃は顧みもしない宗教性をそんな時に持ち出して真面目腐ることを云わず(それこそがまさに日本人の悪弊。)、季節の風物詩として適当にお楽しみ下さい。

 私の通う藤が丘聖ビアンネカトリック教会の近所に最近に二つの新しい店が開いて活気づいています。

 例のあれにより地球津々浦々の人々が不安を抱きどちらかといえば闇の時と認識されている今に、敢えて新しいことを始める、新たな門出を決行することに通りすがりに深く感動しているので今日はそれら二つの店を初めて訪れてみました。

特製鶏塩らーめん。

 イエスがナザレに生まれた時もまた、あれとは違いますが当地イスラエルとその支配国西ローマが闇に包まれていた時代です。

 人は闇を経なければ光を見ることはできない訳ではありませんしイエスはどちらかといえば裕福で難のない育ちをしていました。イエスが厩に生まれたのはその時は偶々父母ヨセフとマリアが国中の繁忙期により宿を取れずに厩に泊まった時に出産をしたことによることで、深い意味はありません。厩に産まれるような貧しさこそが世を救うというような珍理論を説く人もキリスト教徒ではない人がクリスマスを祝うことはおかしいという人と並び絶えませんが救いをもたらす力には貧富は何の関係もありません。

 しかし、偶々そうなったことが不動の事実として聖書に記されて伝えられています。

 偶々だろうと意図しようと、起こった事実は変わりません。そこにどんな意味意義を見出すかは見る人の受け止めようによります。

 キリスト教はイエスがどんな形で生まれたかということにはさしたる意味意義を見出しません。なら、降誕祭には福音書の皇帝アウグストゥスがどうの飼葉桶がどうのという箇所が何で朗読されるのかといえば、それは意味意義という最も重要な事柄に至るには先ずさしたる意味意義のないことであろうとその背景にある事実も確認が必要だという鉄則があるからです。

真夏の暑さもそうですが、真冬の寒さが人の意識を朦朧とさせて事実の認識をさえ危うくさせることがあり得ます。今日待降節第二主日に朗読される福音書も、「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、…。」と、キリスト教の信仰の本質にとってはどうでもいいようなつまらない史実の列挙から始まります。そんな記述の何が福音なのかといえば、そんなどうでもいいようなつまらない時間にあっても神は常に働き続けているということです。神は事実とその積み重ねである歴史と共にあるということがキリスト教の最重要の信仰です。

 イエスが裁くなと言うので、その反対を空理空論とはとりあえず言わないでおきましょう笑。

 人が救いを求めるという事実。

そして何らかの救いを得るという事実。

旧年の護符や破魔矢を焚く火に暖められることもまた一つの救いです。小さな救いからこつこつと積み上げればやがて大きな救いになるでしょう。

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