3年前まで『心のともしび』という番組が日本テレビにありました。今は京都放送の制作によるラジオ番組となっています。1957年(昭和32年)にジェームズハヤット司祭の主宰により始まり、今もその燈が細々と燈り続けています。

その『心のともしび』のつかみ文句は「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう。」。

まことにその通りでございます!が、日本テレビの放送枠を得る際に読売の総帥正力松太郎・亨の直々の配慮によるものであったからか、キリスト教の宣教の番組でありながらも同時に何やら国家権力による人心の馴致のようなおいにーも匂うかのような微妙な存在感がありました。

人心の馴致の手口の一つは場を神妙な雰囲気に包むことです。神聖ではなく神妙。

その手口は特に、戦争を行う際には古今東西にしばしば用いられ、戦争は神妙な雰囲気と共に始められます。戦争を起こす側も受けて立つ側も、和みであれふざけであれ笑いながら始めることはありません。

そこから単純に逆を考えると、平和とは笑うことにあるといえそうです。

しかし笑いにも色々とあり、にやにやするような薄ら笑いは戦争を起こすことはなくても平和の意味を損なわせるようなものがあります。

テレビの頃の『心のともしび』はまず印象からして平和を生み出すような笑顔に乏しい感じがしました。

しかしそういうと「出演者に笑顔がないとテレビに不平を言うのではなく観ている自分が笑顔になれば良いだろう。そもそも人の話を聞く時に笑うな。」などと権力の側からの揚げ足取りがありそう笑。殊に近年はそのような親権力的揚げ足取りが大いに逸って(ハヤットて?)いるようです。

すすんでつける燈とは戦火のことだったりします。

今日のミサ聖祭に今逸りのウクライナ事変を受けてのローマ司教による平和のための聖母の汚れなき御心への奉献の祈がありました。

キリスト教信仰は地上(現世)の平和や幸福に無関心であってはならないとするものですが、殊更に時事ネタを追うことは如何なものかと思うので私はその祈の朗読を聴いていて徐に眠くなって来ました。悪い文章ではありませんがネタ感が漂う。

人間の心理からしても、争や諍(いさかい)というものは第三者が関心を示すほど大きくなるもので、反戦さえ戦争を煽る一要素になり得ます。殊にウクライナ事変はその最も著しい例です。

世界中がもう飽きてしまったので興味がなくなった、そこで戦争が終わるという場合もありますが、初めから世界の関心を引かないので戦争が早く終わる場合もあります。

戦争をやめろと不平を言うよりもすすんで平和を作りましょう。とりあえずそういえそうです。

イエスが「貧しい人は幸いである。天の国は彼等のものである。」という辞で始まる山の上の説教には「平和のために働く人は幸いである。彼等は神の子と呼ばれる。」という辞があります。

平和のために働き平和を作るなら戦争が起こらない訳ではありませんが起こりにくいことは確かです。健康もそうですが、健康な状態とは絶対値よりも相対値、即ち健康になってゆく傾向が大事なのと同じように、平和になってゆく傾向が大事で、無戦争連続何年というようなものが最も大事なのではありません。

信仰もまた、神と共にあろうとしてゆく傾向が最も大事で、信仰の深度というような絶対値では測られません。

聖書には戦争を禁ずる教はありませんしイエスは自らを平和をもたらすために来たのではないと云うように戦争のない平和な世界を望むことはキリスト教の信仰とはそもそもは関係がありません。

しかし人間は争いを好むようなところもあるが大体は争いを嫌う性質があり、争いによる恐怖に晒されない平和を望むものです。それが特に強い例えば私のような人もいますがそれはキリスト教に由来するものではなく世俗の人としての性質と感覚に由来するものです。キリスト教はそれを無関係といって除外するのではなく人間の性質や感覚を考慮すべきだということで平和を重視しており、戦争には懸念するべきとしているのです。

戦争をやめろということはその当事者等を裁くということで福音的ではありませんしやめるのは良くてもやめてどうするのかということについては何もないので空念仏です。

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