雪解けと共に復活祭を待つ初春の四旬節(Lent)と降誕祭を待つ待降節(Advent)の色は紫🟣。

復活祭(Easter)を迎え、イエスの昇天と聖霊の降臨までの春の真盛り、復活節や冬の降誕祭の後の降誕節の色は白⚪️。

イエスの昇天との入れ替わりに聖霊が降り、キリスト教会が創立されたことを祝う初夏の聖霊降臨(Pentecost)の主日の色は赤🔴。

その他の通常の時期の色は緑🟢。

聖霊降臨の主日を過ぎると教会の祭壇の敷布や司祭の袈裟の色は多くの宗派共ほとんど毎週毎日が緑色、その景色が夏と秋の間は延々と続きます。キリスト教は希望の信仰といわれ、緑色は希望を徴す色なので通常の典礼に用いられます。因みに東京の青山学院の紋章も緑色ですが京都の同志社の紋章は紫色。

冒頭の写真は復活祭の前、四旬節の頃に生けたカラー(callaでありcolour ではない。)の花がとうに枯れてしまっても葉だけは尚三か月を経ても少しも枯れないでいる私の食卓です。

人の生涯も葉の間が最も長くて最も大事、花は最後に少しの間だけ咲くものだと思います。若さは花ではない、花は老いの象徴。

延々と続く日常を大切にすることでしょう。

さて、聖霊降臨の主日も過ぎて早三週間になりますが、聖霊に因み、一般に霊とは何かにつき考えてみます。

聖霊とはイエスをキリストと信ずる人々のみに与えられるもので、聖霊についての話を幾らしてもキリスト者以外の関心を引くことはありませんし意味もあまりありません。

キリスト教にだけではなく多くの宗教にもまたは無宗教者にも霊という観念のある人が多くいます。

しかしその観念は多くの場合はなかなかあやふやというか曖昧で、霊とは何かを明瞭に認識している人は少ないかと。

いや、霊とは不思議な力なので得体の知れない曖昧なることこそが良いのだという方々もあるでしょうが、霊というものを不思議で曖昧なものとする考え方は近代合理主義の影響で、合理主義を是としつつしかし不合理の全ては否定しないという傾向の思想からのもの。

曖昧を好む国民性としばしばいわれる日本にだけではなく世界に散在する考え方で、殊にmysteryやoccultsを好む人の多いアメリカは日本以上に霊とは曖昧なものだ、だから良いのだとする人々が多いのではないでしょうか。日本においては、葛飾北斎などにより死者の霊の姿を描く幽霊画が出て来たのはアメリカへの植民及び独立の勧む江戸時代です。江戸時代の前の日本には幽霊という観念はあまりなかったようです。

平安時代に書かれた『大鏡』には「おどろおどろしくかきたれ、」などといい、曖昧でよく分からない、未知の対象を重視する記述がありますがそれは自然などの人の外にある状況の曖昧さであり、人の曖昧さについてではありません。いわゆる日本人の伝統的にある自然への畏怖が都市の風景にも敷衍された例です。むしろ人については清少納言などに典型を見るように明晰(claire)なることが尊ばれていたようです。

幽霊は多くは足のない姿に描かれます。江戸時代の幽霊画に顕著で、現代も幽霊といえばその姿で描かれることが三百年ほど踏襲されています。

幽霊には足がないというのはその視覚的曖昧さもそうですが一方には観念的明晰さが見て取れるかと思います。

曖昧も良いが曖昧だけではない。

明晰も良いが明晰だけではない。

江戸時代の日本人の良い均衡感覚だと思います。

その何が明晰な観念かというと、足がないということは自分の足許が見えないということの象徴だからです。

人の足許は見ようと思えば直ぐに見れます。見ようと思わなければ見えません。

自分の足許は見ようと思えども見えないことも多く、見ようとしなければ尚更に見えず、しかし自分が見ていない時に人が見ていて馬脚が現されることがあり得ます。

足のない幽霊の姿とは、自分の足許のしばしば見えない人のありさまを徴すものなのです。人間皆幽霊。

自分の足が見えないとはそれが自分の認識の外にあるということで、その「外」が霊。

『大鏡』の描くおどろおどろしい風景はそれが元々認識の外にあるということです。

広い意味で定義すると、霊とは認識の外にあるものの全てであるといえそうです。自分の力で動かせるだろうと認識(時に誤認識。)する物事の他は全てが霊なのです。また、自分を自分の力で動かし難い若しくは動かせないだろうと認識する時には俄然として霊という(のような)ものへの関心が強まります。認識の外にあったものを認識したいがまだ認識できないという感情、それが霊感です。

聖書が霊感書である、霊感により書かれたとされるのはその筆者達が当時は認識してはいなかったイスラエル以外の異邦とそこへイエスの福音を宣べ伝えるという課題への、未知なることに踏み出す感情ということではないかと思われます。それを可能にするものが聖霊だという訳です。なので、新約聖書は異邦人に分かる言葉で語るということが重視された跡が窺われます。

足許の他にも自分には見えないのが顔や背。

キリスト教は足や背についての少なくとも直截の言及はあまりありませんが出エジプトにおいてイスラエルの人々が足で逃亡したことや神がその背を紅海の水を以て護ったなどと、言外に窺われるものがあります。

キリスト教はlookismではありませんが、顔を重視します。

「主を仰ぎ見て光を受けよう 主が訪れる人の顔は輝く」という聖歌にも見られるように、自分には見えない顔がとても大切で、目には見えないはずの神についてさえ「御顔を示して下さい、」と云うのです。

客観的に形があるかないかや目に見えるか見えないかを問わず、自分には見えないものが自分に見えるようになるということが重要なのです。

それを可能にするものは自分でもなく他者でもなく神の霊である(以上を勘案してこの論理的矛盾に気づくでしょうか?考えてみると良いでしょう。)ということがキリスト教の信仰です。

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