
使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください。」と言ったとき主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があればこの桑の木に抜け出して海に根を下ろせと言っても言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、すぐ来て食事の席に着きなさいと言う者がいるだろうか? むしろ「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締めわたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい。」と言うのではなかろうか? 命じられたことを果たしたからといって主人は僕に感謝するだろうか? あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と言いなさい。」
聖書 新共同訳 ルカによる福音書
昨日に亡くなられたアントニオ猪木は日本を代表するプロレスラーですが、彼はかつては貿易商を兼業しタバスコペパーソースという薬味だれを日本に輸入していました。
メキシコのタバスコ州の原産の赤唐芥子や青唐芥子を酢などと混ぜて作られる物で、アメリカのルイジアナ州の業者の製品で、今は明治屋が輸入しています。アメリカとメキシコとに大きな大きな壁がもし造られていたならタバスコペパーソースも今はなくなっていたかもしれません。尤も、その壁というのもイエスの譬話のほどの水準の高さではないにしても譬話としてのもので、実際に壁を造るということではないでしょう。私は今までタバスコペパーソースを偶に使ったことはありますが買ったことはなく、この折にアントニオ猪木の追悼として初めて買ってみようかと思いましたが家には種々の唐芥子が沢山あるのでやめておきました。冒頭の写真の鞘唐芥子を一、七味唐芥子、一味唐芥子、カイエンペッパー、韓国唐芥子、苦椒醬、豆板醤、サテトムにハリッサと、またピーマンや獅子唐も唐芥子で、私は無類の唐芥子好ですがタバスコだけは美味しいと思いはしても実際の使い手がほとんどないので買ったことがありません。
粉の唐芥子の多くは種が全て取り除かれていますが鞘唐芥子には種があり、最も辛い部分なので普通はそれを取り除いて捨てて使うとされます。私は若い頃はそれを知らなかったので種も丸毎使い料理していましたが近年にそれを知り、種の一部或いは全部を適当に取り除いて使っています。ピーマンや獅子唐は辛くないので大抵は種を取り除きません。それらはむしろ種がないと見目や歯応えが貧弱に感じます。
かように、芥子種とは芥子が生るためにはなくてはならないものでありながら芥子を食べるためにはあまり使われることのない物であるということがそのイエスの譬話の前提、予備知識で、その意味では現代人にも理解し易いお話でしょう。
芥子だけではなくかぼちゃの種もまた食べられることのほとんどないもので、それについては日本のお寺の和尚さんの歌に語られています。
尤も、種が食べられたらその種は生らない訳で、食べるのが良いのか食べないのが良いのかは微妙な事柄です。
イエスはそのような芥子種のような、その一粒ほどの信仰を持てと言います。
そこでもう一つ必要な前提、予備知識は人は土の塵から作られ、塵のような存在であるという創世記に語られることです。
一粒の芥子種というと如何にも小さいように思えますが土の塵よりは大きい。
別にマウンティングではありませんが、どう見ても一粒の芥子種は一粒の土より大きい。
故に、イエスは大きな信仰を持つことはできなくても今よりは大きな信仰を持てと云うのでしょう。
小さいことは悪いことではないにせよ、あくまでも小さくあろうとするとか小さなことこそが良いのだということではないのです。
また、芥子種は一つの譬なので、必ずしも芥子種を模範としなくてはならない訳でもありません。いずれにせよ土の塵として如何にあるべしかという一人ひとりの闘魂が問われているのです。